おけら史:都会暮らしを捨て、新天地へ 《vol.3 出会い、そして再会》 山崎洋子
May 28, 2003
「人生は味わって生きるもの」
心も体も静かに休ませている間に、一つ一つの細胞の古い皮がむけて、少しずつ再生し始めたような新鮮な気持ちになってきた。しおれかかった植木が雨をうけてすくっと立ち上がっていくように、萎えていた心が生気を取り戻し始めていた。私は家の中で、生まれて初めて何にも縛られることなくぶらぶらと、本を読んだり、眠ったり、ときには屋根の上でギターをひいたり、絵を描いたりして過ごしていた。
そんなある日、かつて牧場を開くからと、カンパを募り歩いて、仲間たちの前から姿を消した山崎君が、ひょっこりバイクで現れた。荷台には牧場でとれたという、大きな、形の不ぞろいのジャガイモを段ボール一杯積んでいた。
今日は、晩方の牛や餌やりまでに帰ればいいからと、ジャガイモの箱を下ろす山崎君に、父はいいところへ来たとばかり、人手の足りないのをいいことに、車の助手席に乗せて醤油配達に出かけてしまった。
にぎりこぶしのようなごつごつとしたジャガイモの皮をむいて家族の大好きなコロッケを作ることにした。父に母に祖母、そして私たち姉妹四人、そして店や工場で一緒に働いているおじさんと勤めの人、それに山崎君、全部で十人分のコロッケを50個作った。作りすぎて、疲れて座り込んでいる私の前で、大きなコロッケをほおばりながら、彼が言った。
「体が治ったらどおするんだ」
それが一番の問題だった。父が言った。
「東京なんか行かんと、仕事なんかせんでもええ。自分の好きなことをすりゃいいから、家にいて、毎日、こんなうまいもん作って、お父ちゃんにも食べさしてくれや」
父の目がやさしく笑っていた。
自分のやりたいことが、ほんとうは何なのかわからなくて、自分がどんな生き方をしたらいいのか見えなくて、家の跡を継いで醤油屋をやるように言われることに反発して、父に逆らってばかりいた。
「嫌やわ。お父ちゃんの言うことなんか聞いて一生送るなんてまっぴらやわ。もっとほかに自分に合った仕事があると思うし、納得できる生き方をしたいもん。もういっぺん、今の仕事やってみるわ。それで何も見つからんかったら、お父ちゃんの言うたこと考えるわ」
母は傍らで私と父とのやりとりをはらはらしながら聞いていた。数年前から心筋梗塞をわずらっていた父には急激な感情の変化がこたえた。母には父を怒らせることがいちばん怖かったのだ。それを知っていながらも私は自分の心を偽って、父にうそを言うことはできなかった。音響効果の今の仕事が自分のほんとうにやりたい仕事かと問われてもわからない。うそも言えず、かといって馬鹿正直にもなれず、ただただあせっていた。
日が落ちて、ジャガイモのかわりにバイクの荷台にはしっかりお土産の醤油と味噌を積んで、残りのコロッケをぶらさげ、帰り支度をしながら山崎君が言った。
「きみはいったい、何をあせっているんだ。そんなに生き急ぐことはないだろう。人生はもっと味わって生きるもんだ。
元気になったら、牧場へ一度遊びに来るといいよ」
濃紫に染まった街並み、夕暮れの闇の中にバイクは消えていった。
人生を味わって生きる、それはいったいどういうことだろう。自分の心に正直に生きたいとあせって、両親や周囲の大人たちと衝突ばかり重ねていた私の心に、その言葉は大きな波紋を投げかけていった。
「風変わりな生活」
夏が過ぎて秋風がここちよいころになると、ひとりでに体が動きだすようになった。仕事に戻るときがきていた。東京へ行く前に、人生を味わって生きる、という生活がどんなものなのか、のぞいてみることにした。
かつて夏になると、友達や家族で出かけた海水浴場や東尋坊のある福井県・三国町。配達をたどりながら小松駅から電車に乗った。足原温泉駅で降りて、バスに乗り換えて三国へ。三国の駅から陣ヶ岡に向かって歩く。踏切を渡ってだらだらと続く長い坂。休み休み歩き続けて一時間余り、陣ヶ岡の坂を上りつめると、林の中に東尋坊の気象台の丸いレーダーの白い建物があった。近くの畑で草取りをしていたおじさんに道を聞いた。レーダーを右手におれて坂を下り、左手の林の中に入っていった。一軒の牛舎の前を曲がると、目の前がパッと開け、眼前に海が見えた。片手には白山連峰の山々が広がり、まるで絵に描いたようなのどかな景色だった。野バラと木イチゴの茂みの林の中の道を奥へ奥へと入っていくと、切り開かれた山の斜面に、ポツンと一軒の牛小屋と、手堀りの井戸、そして小さな家が建っていた。
坂道を下りていくと、丸太で囲った運動場の中の泥の中に、大きな黒い牛が数頭、尻尾をぶらんぶらん揺すって蝿を追いながら、もの珍しそうに寄ってきた。首をしゃきっと立て、赤いとさかを揺らしながら雄鳥が偉そうに歩いていた。そのそばでコッコ、コッコと鳴きながら雌鳥たちがみみずをついばんでいる。
赤いトタン屋根の小さな家の玄関を探していると、後ろから、やあ、という声がした。白いワイシャツのすそを結んで、水色のステテコをはいた彼が、にこにこ笑いながら立っていた。
小さな縁側のある玄関に入ると、あわてて敷きっぱなしのふとんをくるくると巻いて座る場所をつくり、座ぶとんをすすめてくれた。台所で湯を沸かすと、コーヒーカップに茶こしをのせて、お茶っ葉を入れ、なみなみと熱い湯を注いだ。
窓から飛び込んだ銀蝿が天井を飛びかいブンブンうなっている。柱の隅を子ネズミが走っていった。コキブリが立ち止まってひげを揺らす。長い足のカマドウマが向こうの部屋へ三段跳びで飛んでいった。畳のへりを列をつらねて山アリが通り過ぎる。蝿叩きを取り出して、皿の上のせんべいに止まろうとする蝿を叩く彼を、縁側で寝そべっている大きな三毛猫が横目で眺めていた。なるほど、人生を味わうとはこういうことかと思った。ネズミを見ればネズミとりを仕かけ、ゴキブリがいれば即つぶし、蝿がいればフマキラー、蚊がいれば電気蚊とりやキンチョール、何もかも都合の悪いものは目の前から取り除き、殺してしまう都会の生活からはほど遠い。それぞれの生き物たちのしぐさに見とれていると、
「あいつらのほうが俺たちより先に住んでいたんだから、俺たちのほうが侵入者だよ」
彼は、蝿叩きをふりまわして笑った。
台所のやかんのお湯が沸いている。ポットに入れようと思って台所へ立った。しきいをまたいだとたん、ふわっと風が吹いた。何か黒いものがおでこにびちゃっとくっついた。あわてて引きはがしたら、黒い蝿のいっぱいついた蝿取りリボンだった。ねばっこいのりのあとと、黒い蝿が気持ち悪くて、顔を洗おうと流し台を見ると、傍らの茶碗かごは蝿で真っ黒。手を伸ばして払おうとしたら、ウワァーンと天井に舞い上がった。台の下のポリバケツのくみおき水で、きれいに茶碗を洗い直して、ふきんをかけた。が、しばらくすると、ふきんの上も蝿で真っ黒になった。
井戸端へまわって、ポンプの水をくみ出した。白い泡を飛ばして、透き通った水がほとばしり出た。思いきり顔を洗って額をごしごしこすった。蝿取りリボンのねばっこい気持ち悪さが消えていくようだった。
そうっと一口、水を口にふくんでみた。冷たく甘い水の香りが、のどにくーっとしみていった。一年前、彼と彼の父親と一緒に足元の土の下を掘ってつくった手掘りの井戸だった。土の下は、硬い岩盤。のみでけずり、ハンマーで叩きながら一掘り一掘り掘っていったという。周囲には掘り出された石で積んだ長い石垣ができていた。それでも足りずにあちこちに褐色の肌の大きな石がころがっていた。ごつごつした岩穴の井戸をのぞくと、深い水をたたえて、枯れ葉が二、三枚浮かんでいた。小石を投げ入れると、ポッチャーンと音がして、水に映った青い空と私の顔が揺れていた。
風呂場をのぞいてみた。板戸を開けると、中は変形した五角形の風呂場。大きな鉄釜がタイルの中にはめ込んであり、中には丸い板が浮いていた。この板の上に体をかがめてしゃがむのだという。五右衛門風呂だった。直径1メートルの鉄釜を、くず鉄屋さんから五百円で分けてもらったのだそうだ。風呂場のタイルの上に、手作りの燭台に立てた太いろうそくが一本置いてあった。夜、仕事を終えてろうそくの明かりの中で板を浮かべ、風呂に入るのだという。ろうそくなんて、何と優雅なんだろう。
五右衛門風呂なんておもしろそうなので、いっぺん風呂に入れさせてもらった。まきをくべる釜の底から熱い湯がプクプクッと上がって、お尻が急に熱くなった。ポリバケツの水をひしゃくで入れてふと見ると、胸の横に木の葉のようなものが浮いていた。何だかもぞもぞ動いている。ろうそくの明かりを近づけてよく見ると、何と、茶色い大きなゴキブリだった。ゴキブリばかりでなく、エンマコオロギやクモ、得体の知れない昆虫たちが一緒に釜の中でゆだっていた。
この家は、設計図も描いたことのない彼が父親の助けを借りて、初めて建てた家だった。お金はもちろん、材木も道具もない。基礎を打つ生コンやセメントを買う余裕もない。
都会の友人たちから集めたカンパと、両親から借りた父親の退職金、そして自分で稼いだ資金は、とうの昔に五反の土地と十数頭の牛を買ってすべて消えてしまっていた。
この土地にどうやって家を建てるか。材木を手に入れるために、ダンプを借りて土方にいって壊家を手伝って、廃材をもらってくることにした。設計図は、大地をならして、直接地面に絵を描いた。台所、トイレ、風呂場、玄関・・・・・部屋の間取りを実物大の大きさで描いた。寸法をとり縦糸と横糸をはり直した。コンクリートが買えないからそのまま柱を埋めようと穴を掘ったが、地面の下は石だらけ。しかたがないので、井戸から掘り出した石を敷きつめた。その上に大きな梁を家の土台に四角く組んで敷いて四隅に穴を掘って柱を建てた。
廃材の中から使える柱や角材を探し出すと、釘をぬいてカンナをかける。そうすると、すすけて薄汚れた柱も、見違えるように木肌を現してきた。家の裏には使い残した廃材が山のように積んであった。春から夏、夏から秋、小さな家造りにかかりきっている間に、かけ足で季節が過ぎていった。
天井と押し入れができて、家の周囲に青いトタンを打ちつけると、空に一面、どんより重い鉛色の黒雲が立ちこめて、遠くいなずまが光り始めた。いなずまとともに大きな雷鳴がとどろき、激しい音をたてて大粒のあられが赤いトタン屋根の上を打ちつけた。雪おこしの雷だった。バラバラと叩きつけるように降ったあられは、またたく間に家のトタン屋根や牛舎の屋根を白く覆い尽くした。冬将軍の訪れだった。初めて迎える北陸の冬。井戸も掘った。家も建った。牛と鶏、猫と子犬、彼の牧場生活が始まった。
部屋の隅でコオロギが鳴いていた。ほの明るいランプをちゃぶ台の上に置いて、そのまわりを囲んだ彼と仲間たちが、ギターを弾いて自分たちの歌を歌う。静かな山の林の奥、闇の中で、ここだけがぽっかり明るい、そんな思いにかられた。
外に出ると、星が降るように瞬いていた。
こんな生活があったのか・・・・。こんな生き方があったのか・・・・。私には思いもかけない別世界だった。
・・・・・つづく






