おけら史:都会暮らしを捨て、新天地へ 《vol.5 プロポーズ》 山崎洋子
May 28, 2003
「不思議な生き方」
10ヶ月ぶりに仕事に戻った。
キュルキュルまわるテープレコーダの音が懐かしかった。何もかも新鮮だった。ほこりっぽいスタジオの空気でさえ、疲れていたときには雑音に聞こえていた音が、生き生きと響いていた。もう一度やれる。新しい何かが見つかりそうだった。私は自分の体を気づかい、食べ物を気にしながら、与えられた仕事を楽しんでいた。失敗したら、またやりなおせばいい。そう思ったら、肩の力がぬけて気が楽になった。不規則な時間を避けて、なるべく昼間の時間帯の仕事に変えてもらった。食事と仕事と睡眠と、そのバランスを十分に考えて働くようになった。
父が亡くなってから、小松にいる間、月に一度か二度、山崎君が見舞いにやってくるようになっていた。時間があるときは、映画をみたり、今まで読んだ本のことを話し合った。物の見方や考え方が私たち二人を合わせると、物の二面体のようだった。両方の見方や考え方を合わせるとちょうど、一つのものが見えてくる。物事に行きづまって悩んでいるとき、自分自身の出口を見つけるには最適の相手だった。黙っているときは、いつまで黙っていても平気だったし、しゃべりたいときはいつまでもしゃべっていた。だれといるより気が楽で、一緒にいるとほっとした。不思議な友達だった。
大学時代、山崎君と一緒に映画を撮ったことがあった。大学闘争の最中、恋愛か革命か、バリケードの内側で自分の人生を語っていた先輩たちの中で、恋愛に闘争に、アルバイトに、教育実習にと、何でもあたりまえのように受け入れて、人生をおおらかに享受しているような先輩がいた。そんな先輩を通して大学とは何なのか、政治とは何か、教育とは何なのか、青春の生きざまを描こうとしたものだった。
山崎君はカメラ、私は音、数人の仲間たちで、先輩を追い始めた。好きな女の人と一緒に暮らし、今日はデモ、明日は土方、明後日は家庭教師。前日はかつて教育実習で教えた子供たちが修学旅行にやってきて先輩のまわりから離れない。そんな姿をカメラにおさめ、言葉を録音していく。
大学とは、大勢の人と人とのぶつかり合いの中で、まさに生まれ育った環境の中で築かれた個人と個人のとらわれの意思を解放し、新たに、物の見方や考え方を再構築していく場だった。そのための学問であり教育だった。そのことを先輩に取材する中で感じさせられていったのだが、撮影も終了段階に入ったある日、突然山崎君が学校へ来なくなった。だれに聞いても消息がわからない。先輩も知らないという。
大学を地域に開放することと学問の自由等を求め、大学立法に反対した学生たちの運動も下火になり、半年ぶりに授業が再開された。久しぶりに学校へ出かけると、キャンパスがやけに騒がしかった。裏門の向こうに装甲車が並び、学生たちが騒いでいた。教育学部の授業中、突然機動隊が教室に入り込んできて、数名の学生を捕まえていったのだという。
学部長の授業のときに、学生たちが今まで提出した大学の問題を、どのように受けとめているのか、解決したのか、話し合いの場を持って答えてもらいたいと数名の学生が申し出た。学部長は彼らの話も聞かず、理由も言わず、警察に通報し、機動隊を教室に入れ、大勢の学生の前で彼らを有無を言わせずに連行させてしまったのだった。大学が自らの努力と工夫で問題解決することを放棄し、警察の力で学生たちを取り締まるようになってしまったのだ。全国の学生たちが反対していた大学立法とはそういうものだった。
父が亡くなってから、小松にいる間、月に一度か二度、山崎君が見舞いにやってくるようになっていた。時間があるときは、映画をみたり、今まで読んだ本のことを話し合った。物の見方や考え方が私たち二人を合わせると、物の二面体のようだった。両方の見方や考え方を合わせるとちょうど、一つのものが見えてくる。物事に行きづまって悩んでいるとき、自分自身の出口を見つけるには最適の相手だった。黙っているときは、いつまで黙っていても平気だったし、しゃべりたいときはいつまでもしゃべっていた。だれといるより気が楽で、一緒にいるとほっとした。不思議な友達だった。
大学時代、山崎君と一緒に映画を撮ったことがあった。大学闘争の最中、恋愛か革命か、バリケードの内側で自分の人生を語っていた先輩たちの中で、恋愛に闘争に、アルバイトに、教育実習にと、何でもあたりまえのように受け入れて、人生をおおらかに享受しているような先輩がいた。そんな先輩を通して大学とは何なのか、政治とは何か、教育とは何なのか、青春の生きざまを描こうとしたものだった。
山崎君はカメラ、私は音、数人の仲間たちで、先輩を追い始めた。好きな女の人と一緒に暮らし、今日はデモ、明日は土方、明後日は家庭教師。前日はかつて教育実習で教えた子供たちが修学旅行にやってきて先輩のまわりから離れない。そんな姿をカメラにおさめ、言葉を録音していく。
大学とは、大勢の人と人とのぶつかり合いの中で、まさに生まれ育った環境の中で築かれた個人と個人のとらわれの意思を解放し、新たに、物の見方や考え方を再構築していく場だった。そのための学問であり教育だった。そのことを先輩に取材する中で感じさせられていったのだが、撮影も終了段階に入ったある日、突然山崎君が学校へ来なくなった。だれに聞いても消息がわからない。先輩も知らないという。
大学を地域に開放することと学問の自由等を求め、大学立法に反対した学生たちの運動も下火になり、半年ぶりに授業が再開された。久しぶりに学校へ出かけると、キャンパスがやけに騒がしかった。裏門の向こうに装甲車が並び、学生たちが騒いでいた。教育学部の授業中、突然機動隊が教室に入り込んできて、数名の学生を捕まえていったのだという。
学部長の授業のときに、学生たちが今まで提出した大学の問題を、どのように受けとめているのか、解決したのか、話し合いの場を持って答えてもらいたいと数名の学生が申し出た。学部長は彼らの話も聞かず、理由も言わず、警察に通報し、機動隊を教室に入れ、大勢の学生の前で彼らを有無を言わせずに連行させてしまったのだった。大学が自らの努力と工夫で問題解決することを放棄し、警察の力で学生たちを取り締まるようになってしまったのだ。全国の学生たちが反対していた大学立法とはそういうものだった。
捕まった中に山崎君もいた。学部の仲間たちも、サークルの友人たちも、この半年ほどの間に次から次へと捕まった。警察の留置所で一眠りしてきた人は両手の指で数えきれなかった。今まで絶対だった大学の言論の自由、学問の自由、行動の自由の幻想はくずれ、それらはあってなきに等しいものになってしまった。学部長の行為に、大学に対する学生たちの信頼は無残にも打ち砕かれ、虚しさとしらじらしさだけ漂っていた。
それ以来、山崎君はキャンパスには戻ってこなかった。彼の大学への登校拒否が始まったのだ。
キャンパスには静かな日常が戻っていた。まるで昨日までシュプレヒコールを叫びデモっていたのがうそのように学園は静まりかえっていた。
フィルムとカメラを持ったままどこかへ行ってしまった山崎君のおかげで、映画作りは中止。仲間たちと集めた音を構成して、録音構成となってしまった。それにしてもいったい、彼はどこでどうしているのだろう。ふっと現れて、ふっと消えて、いつも心をそこに残すことなく自由自在。自由といえば自由、いいかげんといえばいいかげん、全く変な人だった。そのうちに、また、気が向いたらふっと姿を現すだろう。私たちはだれも気にしなかった。
数ヶ月が経った。70年の秋も終わりに近いことだった。人気のないキャンパスには木枯らしが吹いて、赤く色づいたつたの葉がカサコソと舞っていた。
「よお!」
日焼けした人なつっこい顔をほころばせて、青いちゃんちゃんこのたもとを揺すりながら肩をポンと叩いて声をかけた友人がいた。一瞬、明日を止めてよく見ると、久しぶりの山崎君だった。彼の頬は上気し、瞳はうるんで輝いていた。
「俺ら、もう、この大学で学ぶことは何もなくなった。今日限りこの学校をやめる。やめて旅に出ようと思う。大学には幻想もないし、家にも俺らの居場所なんてない。もう引き返すなんてことはできない。自分で納得のできるように生きていくだけだな」
遠くを見つめる瞳の中に赤い炎が燃えているようだった。
それから一年間、彼と会うことはなかった。ところがある日、
「山崎さんは、福井の山の中の一軒家で、研修中だとか言って、牛飼いのまねごとをしていましたよ」
卒論の資料集めから戻ってくると、サークルの放送研究会の部屋で待ちかまえていた後輩の山越君が言った。
「夏休みに葉書きをもらったので、北陸の旅の途中、福井へ寄ってみたんです。東尋坊の近くの山の中の一軒家でね、牛小屋の横の小さな家で、七輪でごはんを炊いて自炊していましたよ。おかずはめざしとたくあんだったかな、家の周囲には鶏が遊んでいるんです。牛小屋のわらの中とか棚の上に卵がころがっていて、それを拾ってきて、茶碗のふちでコンコンと割ってごはんにぶっかけて食べるんです。鶏たちは牛の餌のトウモロコシをつついたり、牛糞の中のうじをほじくったり、飛んでいる蝿をパクッと飲み込んだり。卵の黄身なんか橙色に濃くってね。なかなか割れないの。うまかったなあ・・・・」
話している後輩は、山の中の生活を思い出してかほんとうに楽しそうだった。
「夕方、先輩がまきを割って風呂にくべろというんです。自分は牛の餌をやってくるからといって。なたを思いきり振り下ろすけど、まきがなかなか割れないんです。そのうえ、火もつかないし、風呂を沸かすのに一時間も二時間もかかるんですよ。考えられない生活でしょ」
そう言うと、丸い目を細めて愉快そうに笑った。
「あの先輩は何を考えているのかわからないところがありますねぇ。何か始めるかと思うと、あっという間にいなくなって、まるで風のようで一緒にいる者には、わけがわからないや。だけど、やってることはいるもおもしろそうだなあ」
「ほんと!」
後輩の話に、私たちは思わず笑った。今ごろ、山崎君はどんなに大きなくしゃみをしてるやら。
「突然の出来事」
再び、音の仕事に戻ってからも、ときどき上京すると山崎君から連絡があった。互いの友人を紹介したり、されたり、友達の輪が次から次へと広がっていった。新聞記者、ルポライター、テレビのディレクター、オフィス・レディー、商社のサラリーマン、大学の講師、塾の経営者、ガラス屋、不動産屋、政治家のカバン持ち、教師、土建屋、公務員。それぞれの卵たちが、東京の片隅で生きていた。友達と語り、食べ、飲み、私、都会のおもしろさをふんだんに享受していた。
そんなある日、久しぶりに上京した山崎君がやってきた。まだ何となく疲れやすい、青白い私の顔を見て言った。
「こんな息苦しい都会で、いつまでこんな生活を続けるつもりなんや。音の仕事はじぶんの生をかけるほどのものなんか。いったい、何に執着しとるんや。
いいかげんにして、山の中で一緒に暮らそう。空気はうまいし、食い物は新鮮やし、ええぞ」
突然、何を言い出すのかと思ったら、山の中で一緒に暮らそうと言う。まるでそうするのかがあたりまえのようだった。私はびっくりした。
「都会の生活も、仕事も、家も、友達も、今まで受けた教育もみんな捨てて、何もないところで何ができるか、一緒に何かを創ってみないか」
その言葉が妙に心に響いた。
何もかも捨てて、何もないところから何かを創る、そんな生活ができたらおもしろそうだった。
彼と一緒に山の中で、農業しながら生活してみようかしら、そう思った。
一緒に生きていく相棒として、こんなに気楽な相手はいない。お互いにやりたいことをやりながら、縛ることなく、縛られることなく、無理をせず、自然体でつき合っていける。彼となら、何でも話し合いながら、フィフティ・フィフティで気楽にやっていけそうだった。けれども、そんなに簡単に仕事をやめることはできなかった。
「ちょっと、その返事待ってくれる。簡単に仕事をやめるわけにはいかないのよ。そんなに一方的に言われても、私のほうにも都合があるし、少し時間をくれない?」
彼は、「そうか」と言って、突然、ジャガイモの相場の話を始めた。黙っていると一時間くらい平気でしゃべっている彼は全くもってわけのわからない人だった。
・・・・・つづく






