おけら史:さらば、おけら山荘 《vol.1 雪国へ》 山崎一之

August 11, 2003

botan.gif

(1)


 ともかく住む家も、食べ物も、飲み水も何もない。
その上、五反の土地を買った時点で私は、すっからかんになっていた。
どこをどうはたいても、出てくるのは埃だけである。
何にもない。
 今、俺にあるものは、と周りを見まわすと、俺の立っている石ころだらけの草さえも生えそうもない、五反の土地だけである。
それに北陸の真青な抜けるような大空が俺のものか、と、少しいきがってみても、一銭の足しにもなりはしない。
 果たして何年生き延びれるだろうか。
自分でも不思議なくらい冷ややかに自分自身を見ている。
 ゼロになりたい。
全てのしがらみを捨てて、俺は俺の人生をゼロから始めたい。と、二十才になった頃から思い始めていた。

 朝起きて飯を食う。
顔を洗う。
歯を磨く。
学校に行くか働きに行くために電車に乗り目的地に向かう。
顔見知りの友人に何人か会う。
家に帰れば夕飯の仕度がしてあり、喉が乾けば水がある。
おまけにビールも酒も冷蔵庫に冷えている。
テレビも電話も快適な生活をするために両親が必死に働き貯えていったものが、子供の私らにはそこそこ不自由なく用意されている。
「これ以上、何が不足だって言うんだ」
と言う両親の声が頭の上から響いてきそうだ。
「不足がないのが不満なんだ!」
と言ったら親の怒鳴り声まで想像できる。

豊かになればなるほど、私の人生は不自由になっていく。
そういう生活に何の疑問も感じないうちは、そういう生活も悪いものではなかった。
が、一歩、そういう生活から足を踏み出してみると、狂い始めた歯車と色あせた現実は微調整ぐらいでは収拾がつかなくなってしまった。
いつのまにか私は憂鬱な毎日を送るようになっていた。
全ての生活がきっちりとセットされ、セットされた生活の中で私は生かされていた。
少しぐらいの修復ではこの生かされているという受身の現実は変わりようがない。
このまま憂鬱な遥かに続く七十数余年の人生を「豊かさ」に埋没して生き続けるのか、
或いは、どこかに生きる場所を求めて、自分だけを頼りに自分の生き方を始めるのか、私は選択を迫られていた。
「ようし、日本海の見える丘の上で、牛でも飼いながら暮らしてみるか。どうせなら雪国がいいぞ。」
 二十数年間住み慣れた太平洋はもううんざりだった。
燦燦と輝く朝日に照らされた豊穣にたゆたう太平洋。
こんな太平洋を二十数年も見続けて来たから私はこんなのっぺりした性格の人間になってしまったのだ。
加山雄三やサザンの桑田を見ろ。
あれは茅ヶ崎そのものだ。
あんな人間にだけはなりたくなかった。

 私の相棒は牛でなければならなかった。
豚のせわしなさと、鶏の貪欲さは、ちょっと遠慮したい気分だった。
牛は横に居てくれるだけで気分が落ち着きそうだった。
それに時たま「もうー」と一鳴きしてくれると寂しさも紛れそうだ。

 雪国は舟木一夫の「北国の街」を映画で見て以来、住むなら雪の降るところと決めていた。
それに雪が降ったら、働かなくてもいいと思っていなかったわけでもなかった。
 そんな思いにかられて、北陸は越前の三国湊に辿り着いたのは、茅ヶ崎を発ってから一年ほど過ぎた雪解けの頃だった。

(2)


 前田牧場は三国町の日本海が俯瞰できる丘陵地の頂付近にあった。
さらさらとまるで音楽を奏でているかのようなポプラに囲まれた古い兵舎を移築したという木造づくりの牛舎は、東斜面に向かって建てられていた。
開拓農家が住んでいた平屋造りの家の周りには、梅、桃、栗などの果樹が植えられ、家の西側に開かれた小さな畑とともに、生活の匂いが四囲に充満していた。
「ごめんください」
私は吸い込まれるように前田牧場の牛小屋の前に立っていた。

 前田さんは四十才過ぎの、いかにも力仕事で鍛えたといわんばかりの細身の農家のご主人だった。
 牛飼いを習いたい事、田んぼも畑もやってみたい事を私は繰り返し繰り返しお願いした。
見ず知らずの私の話を半信半疑で聞いてくれた前田さんは
「県の先生を通してなら…」
という条件で、私を研修生として受け入れてくれた。
県の先生とは『農業改良普及員』のことで、農業者と直接ふれあう県の出先機関の職員の事だった。
「よろしくお願いします」
私はやっとの事で、田舎での第一歩をスタートしたのである。
 それから丸一年、牛飼いは勿論、田舎での生活のイロハを教わる事になった。
 朝六時に起床し、夜十時に床に着くという生活のリズムを徹底的に叩きこまれるのだ。
ところが、二十数年間培った夜更かし、朝寝坊こきの習慣は、そうそうた易く改められるものではない。
 前田さんが朝来ても、まだ起きていない事は度々で、町外に牛を運ぶのに車の横に座ったりすると、話をしながら、いつのまにか居眠りを始めるという有様で、何とも頼りない研修生であった。

 牛の事になると、もっと心細くなる。
生まれてからこの方、牛を間近で見た記憶がないのだ。
 私は前田牧場に来るまでは、牛は全て乳牛だと思い込んでいたものだから、黒牛が乳牛ではないことを知りびっくりしてしまった。
少々小振りの古来より飼い込まれて来た黒牛は、気品と風格があった。
 黒牛が二、三頭いれば、自分の栄養源が確保でき、余った牛乳を近所の人に販売すれば、男一人が生活するぐらいの収入はあるものと多寡をくくっていた私は、最初から思惑が大きく外れてしまった。
 黒牛は肉牛だったのだ。

 西部劇で平原を疾走する赤牛も、肉牛だと判ったのは、前田さんとの話からだった。
 乳牛は成長すれば自然に乳を出すものだと一片の疑いも持っていなかった私は、だから、牛乳が産後の子牛が飲むべき母乳を、実は人間が子牛に代わって頂いている、つまり、かすめ取って飲んでいるのだと知ったときは、涙が出るほど感動した。

 研修の終わりに近づいた冬のある日、一頭一頭繋がれた牛が、ずらりとお尻を並べた牛舎の片隅で、私は牛の糞引きをしていた。
 一日に二回、牛の糞を溝まで引き落とし、小便は尿溜めに流れるように糞をかき分け、流れを良くしてやり、一輪車で四台、朝夕畑まで糞を出すのが私の仕事だった。
「糞引き十年」
普及所の先生や前田さんから、私を勇気付けるためだろうが、耳にタコができるほど聞かされた言葉だ。
 糞の状態で牛の健康具合が判るようにならねば一人前の牛飼いにはなれない、という意味である。
落さんという新潟でワイン造りをしている人が『一粒のブドウの中に人生の真実がある』と言っていたが、さしずめ私が言うとなれば『一塊の牛糞の中に牛飼いの全ての真実がある』となるであろうか。

「糞かき十年、糞かき十年」と念仏でも唱えるようにして糞かきをしていた時、私は目の前の一頭の牛の尻にふと目が釘付けになってしまった。その牛の尻から出血しているではないか。
九ヵ月近く糞出しをしていたのに、尻から出血した牛など一度も出くわした事など無かったのである。
コンクリートを打設した上に直接寝起きしている牛は、さぞかし寒いだろうな、と常々心配していた私は、すぐに我が身と比較して考えてしまった。
私も寒くなってコンクリートの上に直接座るとすぐに痔になってしまう。可愛そうにこの牛も寒くて痔になってしまったのだ。
私はびっくりして前田さんに知らせに走った。
「前田さん、大変です!牛が一頭痔になっています!」
「痔って、山ちゃん、この痔か?」
 前田さんはお尻を押さえながら、私の話を聞いて、牛のところへ飛んで来ると、思わず大声で笑い出した。
「山ちゃん、これは発情や。」
「?………」
「発情するとたまに出血する牛もいるんや。人間と一緒や。痔と違う。」
 人間の生理と牛の発情との関係が、一緒なのかどうかは良く解っていなかったが、ともかく痔ではなかった、と言うことだけは納得できた。
「痔ではなかったのか」
私は研修が終わる頃になってやっと牛に発情というものがある事を知ったのだった。

 研修が終わりに近づいた二月の雪の激しく降りしきる日、前田さんと農協の熊谷さん私の両親と私の五人は、現金を前にして契約書に印鑑を押していた。
 土地の値段は二年ほどのアルバイトで貯めたお金で買えるほど、安価なものではなかった。
 親子の縁を切っても「俺は俺のやりたい事をする」と啖呵を切りながら、最後は親に頭を下げお金を出してもらった。

 私は極めて自己中心的に物事を考え始めていた。
ともかく今は、他人を思いやる気持ちはきれいさっぱり捨てる事にした。
 他人の気持を思いやっていたら、自分のやりたい事などは何も出来やしない。
自分の人生を生き続けること。
そのためには親にも犠牲になってもらおう。
あとの事は生き抜いてから考えればいい。

こうして私は、生まれて初めて地球上の片隅に、石ころだらけではあるが私だけの五反の土地を手に入れることが出来たのだった。

・・・・・つづく

←back next→

Posted by おけら牧場 ラーバンの森 | Trackback (2)