おけら史:さらば、おけら山荘 《vol.2 大地に描いた設計図》 山崎一之

August 11, 2003

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(1)


石ころだらけの土地とはいえ五反の土地を手に入れることが出来た。
先ず最初に必要なのは水だった。
水が無ければ生活する事が出来ない。
「よし、井戸を掘ろう」
 どこをどう掘れば水が出るのか判らない。
この辺りに井戸があれば便利だろうという場所に、先ずはスコップを突き立ててみた。
 一メートルも掘るとそこからは岩盤であった。
東尋坊という奇岩の名所がすぐ近くにあるのだが、その東尋坊ラインとも呼ぶべき岩の層が、ここまで延びて来ているのだ。
 ここから下は全て岩盤である。
来る日も来る日も、のみとハンマーで座布団みたいな岩を一枚一枚剥がしていく作業が始まった。

 最初は父と私の二人で始めた作業だったが、途中、東京からKとTの二人が応援に駆けつけてくれた。
井戸の中には二人が下りて行き、地上では二人が三叉に組んだ丸太の上にぶら下げた木製の滑車を利用し、土と岩を引き上げるのである。
 普通、土の下には砂の層があり、その下は砂利、砂利の下は待望の地下水があると相場は決まっているらしいのだが、ここの土地はどこまで行っても岩盤ばかりである。
 削岩機などという洒落た物は無い。
兎にも角にも、のみと三本のハンマーで、来る日も来る日も掘り続けるしかないのである。
 一ヶ月も掘り続けたであろうか。
直径八十センチ程の丸い穴が、その頃には深さ六メートル、直径二メートル程の末広がりの穴になっていた。

 いつものようにテストハンマーでのみの頭を打ちつけ、ちょうど座布団くらいの大きな岩をずり動かした時だった。
「どくどく」と北側の岩間から水が出てくるのである。
「なんだ、なんだ。水が出てきちゃったぜ。」と、思わず邪魔者でも現れたようにつぶやいたのを覚えている。
 一ヶ月も毎日毎日穴倉に潜り込み、潜り込んでのみで岩を砕いているうちに、岩を砕いて穴を掘ることが目的化してしまい、井戸を掘っているという意識がいつのまにか無くなってしまっていたのだ。
 私は、ただただ無意識にのみで岩を砕いていたのだった。

 それから半月後には深さ一メートル二十センチほどの水深を誇る井戸が完成した。
「それにしても……」
と、近所のおじさんが言うには、
「兄ちゃんら運が良かったのお」
と言うことらしい。
 普通の地層なら湧く前に必ずガスが発生するとのこと。
だから井戸を掘る時は必ずローソクを持って下に降りないと、非常に危険だということだ。それに井戸側といって、井戸を掘り進む毎に、一メートルほどの井戸の壁とも言うべきコンクリートの筒状の物を落としていかないと、普通の地層だったら必ず崩れてくるとの事。
 岩盤でなければ、もっと楽に掘り進めたのに、と出てきた岩を蹴飛ばしながら我が身の不運を嘆いていたが、近所のおじさんが言うには、岩盤だからこそ、こんな無茶をやっても井戸が掘れたんやなあ、と言うことらしい。
「兄ちゃんら運が良かったのお」
そうか……。俺は運が良いのか……。
私は奇妙にこの『運がいい』ということを心底納得してしまった。

 以来三〇年。
二度ほど井戸の水涸れの年はあったが、現在に至るまで、毎日毎日私達の為にだけ、この井戸水は湧き続けている。

(2)


山桜が散り始め、染井吉野が満開である。
白一色だった冬景色が、べたべたの雪融け水で塗りたくられ、道のあちこちが泥土色で塗り散らかされていたついこの間が嘘のようである。
それもその筈、一ヶ月半も穴の中に潜り込んでいたものだから、季節の移り変わりなど感じている暇も無かったわけである。
 季節は突然の春爛漫。
もぐら掘りの生活もこれで終わりかと思うと、ちょっと心残りではあったが、私には次なる大事業が待っていた。
 家の建築である。
金の無い者が家を建てる。
魔法でもなかなか出来ない難しい問題を実際にやり遂げないことには、私の生活は前には進まない。

「どうしょう親父さん。」
 こういう時の父は実に頼り甲斐のある人になる。
戦争で十余年、死線を彷徨ってきた父は、同時に身一つで生きる術を心得ている、実に頼もしい人生の先達でもあった。
 自衛隊に入ると自動車運転免許や溶接工の免許が取れるとは聞いていたが、何でそんな必要があるのかとは考えてもみなかった。
井戸掘りや家造りをやりながら「そうか」とパズルが一つ解けたような気がした。
 戦争とは殺し合いであると同時に、必要最低限の人間の生の営みの連続性が要求されるのだ。つまり兵隊の最小限の部隊というのは、自給自足の為の最低限の人数でまかなわなければならないのである。
「私は…が出来ません」
では、生き続けることができないのだ。
 前線で多くの農家の兵士達が死んでいったと言う話が、気味が悪いほど実感できた。

「どうしょう親父さん」
何しろ父は十余年間、戦争の最前線の渦中にいた人である。
「先ずは材木が欲しいから、解体屋にでも頼んで、しっかりと古材を貰って来ることだな。」
 こういう時の父は、背を少々そらし気味に鬚でもあったらなでたいような気分で、鼻をぴくつかせながらものを言う。
正直と言えば正直だが、よくよく気を張らないと、こういう人は弱い人には徹底的に残虐になれるのである。
尤も父と子の関係は、すでに家を出た時から私が父に対し残虐になれる立場を確立していたので、その逆には決してなり得ないからその心配はなかった。

 ところで、父はここに来る時に大きな誤解をして来てしまったようだった。
私が家を造りたいので手伝ってくれないかと父に頼むと、父はすぐさま大工道具を持って三国まで来てくれた。
 父は持ってきた大工道具を一つ一つ並べると
「さあどうだ。素人でこれほど道具を持っているのは、そうざらにいないぞ。」
と得意満面の笑みをたたえて私を振り返った。
私はあきれて口もきけないと言った風情で父を見た。
「?……」
「親父さんここは電気が無いんだよ!この電気のこや電気カンナ、電気ドリルどこで使おうって言うんだよ。」
 父は電動の大工道具一式を茅ヶ崎から持って来たのだった。

 次の日から解体屋通いが始まった。
アルバイトを兼ねての解体屋作業である。
作業の合間には、何故か英語の豆単を取り出しては英単語の暗記をしている。
 こんなことをしていてもいいのか、と、まだ一方では都会への未練もあるのだ。
 一ヶ月も通うと、若干のお金と、ダンプに十台分くらいの古材が集まった。
父もその間、カンナやノコギリを入念に磨き上げたり、めぼしい古材を拾い出しては、釘を抜いたり、使える古材と屑をより分けていた。

(3)


「そろそろ設計図を描けよ。」
父の命令である。
この年代の職人気質の男たちに共通している点は、自分で最初にやらずに、先ず人にやらせてみるというやり方である。
「きちっ」とできれば何も言わずにやらせてくれるが、殆どの場合、不合格である。
そしておもむろに自分が、「びしっ」と(少なくとも若い者より)決めてくれる。
「なんだ親父、自分で出来るんなら自分でやれよ。」
 田舎での生活を始めよう、と言い出しさえしなければ、そう言って終わってしまうのだが、ここではそうはいかない。
ねちねち嫌味を言われようと、怒鳴られようと、耐えて、一日でも早く仕事を覚えていかなければならない。
「設計図か……。」
 親父は小学校卒業で、私は中退とは言え、大学に四年間も通っていたのだ。
人の弱みにつけ込んで、親父は腹の中で笑っているのだ。
「大学卒業って言ったって、何にも分かっちゃいねえ。」
 父の口癖だった。

 小学校を卒業して十余年間、職人の世界で年季を入れ、独立する間もなく戦争に十余年、死の渕を彷徨い、生きる為とはいえ強盗にかっぱらい、更に殺人や強姦も国の命令でやり通したに違いない。
そして敗戦、ひきあげ、戦後の食糧難。
戦前の軍国主義は全て悪く、わけも判らない戦後の民主主義は全て善。
戦後の価値の喪失感などに浸っている時間さえ無かった。
 父たちの世代は平和時の私たちに比べれば、二倍も三倍も、いわば人生をくぐり抜けて来たのだ。
 そして、二十余年。
高度成長の時代の底辺を支えてきたのも父たちの世代だった。

 朝鮮戦争とベトナム戦争が日本の高度経済成長の主因と断ずるのは容易いが、帝国陸軍に鍛えられた精神と強靭な体力を持つ父たちの世代が、死のぎりぎりまでの困難と貧乏に歯をくいしばって耐え忍んだのも事実である。
 ところが、自分たちの息子のような世代に、大学出だからという理由だけで(父には少なくともそうとしか理解できなかった)追い越されていった。
「大卒と言ったって、何も判っちゃいねえ。」
 そう言う時の父の目には凄味があった。
 その言葉の中に潜む恨みや羨望、諦めや焦燥が、幼い私の心にもはっきりとみてとれた。
「もう二、三日待ってよ。」
 設計図など、高校の『職業・技術』の時間にやって以来、全く興味など持っていなかった。
 父の言う設計図とは、立面図、正面図、側面図の簡単な見取り図のことである。
ただ計算しなくてはいけないのが、柱が何本、梁が何本、垂木が何本という木材の見積りと、金具やコンクリートの数量の計算である。
 二日ほど、設計に関する本を探したが、どの本も難しすぎて役に立たない。
 日数だけが三日、四日と過ぎて行く。

 五月の終わりに近づくと、みんみん蝉があちこちで鳴き始めていた。
鶯の鳴き声で始まる春の鳥たちの大合唱は、次第にかっこうの独唱に代わり、今では夏を告げるかのようにみんみん蝉が鳴き競っている。
 ただ時々、「あれっ」と耳をそばだてる鳴き声が混じっていたりする。
中でも鶯の子供のおぼつかない鳴き声は、思わず気持ちを和らげてくれたりする。
「設計図は出来たか」
 父が私に言ってからとうに十日は過ぎていた。
「なにくそ」と思ってもなかなか良い設計図が引けない。
「うん……」
 生返事をしながら、今日の晩飯のおかずの事を考えていた。
 このところ、毎日毎日忙しく、鯖と秋刀魚の缶詰の繰り返しだった。
 たまには「ぱあっ!」と、野菜付きのトンカツでも豪勢に食ってみたかった。
「親父さん、今日はたまには早くあがって美味い飯でも食おうや。」
 母の糠漬けがやけに恋しくなったりもする。

 人間の抗いようのない保守性は、どんな立派な人間でも、『おふくろの味』には何の抵抗も出来ない、と言うところにあるような気がする。
 そう言えば、さかんに革命や、革命やと言っていた友人の好物は確か鯵の干物と古漬けだった。
しかも鯵は三浦半島から伊豆半島にかけたところの天日干しの干物でなければならないと言う。
「あんた革命、革命と言うわりには食い物は保守的だなあ。」
と、感嘆を交えながら言うと、
「お前らにや、天日干しの干物と、ただの乾燥させた物との違いも判らんやろ。革命も保守も紙一重って言うのとよく似てるのよ。」
と、判ったような判らんような事を言っていたのを思い出す。
「鯵の干物でも買って来ようか。」
 我ながら良い考えだと思って父に話しかけたが、
「ちっ」
と、父は舌打ちした。
 何を考えているのだこの馬鹿は、とでも言いたそうに、父は私の顔をまじまじと見つめている。
軽蔑で、今にも薄笑いさえ浮かべそうである。
父に対する思いやりは一瞬のうちに消し飛んで、むらむらと男への対抗意識だけが湧いてきた。
「設計図、設計図って言うけど、親父さんはどんな家を想像しているんやの。」
 何と三国に住んで一年余り、三国弁が混じり始めている。
 父は「やっぱり」という顔をして、ポケットから小さく折りたたんだ紙を丁寧に広げ始めた。
「やっぱり」と、私も思った。
嫌な性格である。
最初から私にできない事を見越して、十日も待って自分の設計図を、これ見よがしに目の前に出してきたのだ。

 そこには四畳半と六畳、台所に風呂にトイレ、それに押入れが二ヶ所描かれた小さいが完璧な設計図があった。
 三寸五分の九尺の柱五十本、四寸×六寸の二間の梁六本、九尺の梁十本……。
基礎、犬走り、土間打設コンクリート約十二立米……。ブロック百個、波トタン八尺物四十枚、カスガイ……。ハゴイタ……。
 何やらやたら細かく書いてある。
 頭に「かしっ」と血が昇っていくのが判った。
「こんな設計図、無理に決まっているやろし。」
 なんとなく怪しい三国弁を操りながら、必死に次の一言を考えていた。
「そもそも、九尺の柱やら、四寸×六寸の二間物の梁なんか買う金はないし、折角造るなら、もう少し大きな夢のある家でなくっちゃ、友達が来ても泊まって貰えやしねえじゃんか。」
 自分で無茶苦茶言っている時は時々茅ヶ崎弁が出て来たりする。
 金が無いのならもっと小さな家にしてくれ、と言うのであれば筋が通る。
もっと大きな家にしろと言うのは理屈に合わない。

 私が無茶苦茶を言う理由は、父と私の家に対する根本的な考え方の違いからくる事は判っていた。
 父が三国に来て間もない三月のある日、
「ところでお前はどんな家が欲しいんだ。」
と、一斗缶に割り木をくべながら父は私に問いかけてきた。
「親父さん、その事なんだけど、丸太小屋、ていうのはどうやろか。」
 父と面と向かって対話らしい対話をしたのはこの時が初めてであった。

(4)


 私が生まれる前から、私が家を出るまで、父は東神奈川のNKK浅野ドッグまで、判で押したように朝六時半の汽車に乗って、出掛けて行った。
夜はたまに明るいうちに帰ってきて、小さい頃将棋を指した覚えがある。
それに台風の日などは昼間から家族麻雀はしたことがあったが、話し合いをしたという覚えは無かった。
 父と面と向き合う時は、全て結果報告だけであった。
「高校を受験させて下さい。」
「大学を受験させて下さい。」
「大学を退めさせて下さい。」
 つまり父と話し合いの結果、結論を出したというのではなく、結果を報告して、事後了解をとる為の存在だったのである。
「何馬鹿な事考えているんだ。」
父はにべもなかった。
 丸太小屋というものは、殆ど同じ寸法のものが何百本も必要である事、
隙間があるとそこから風が入ってきて、とてもじゃないが冬は過ごせない事。
 そして何より、丸太小屋の造り方を俺が知っている筈がないじゃないか、という父のもっとも理由のため、私の『夢』は、はからずも門前払いを受けてしまった。

 私の家に対する夢は、小さい頃の『シェーン』のあの開拓の丸太小屋であり、『ラッシー』が自由に出入できる家だったのだ。
 その時初めて、日本の雑木や杉丸太では、丸太小屋はできない、という事実が判ったのである。
「なんじゃ、そんな事も知らんのか。」
 丸太小屋の造り方を知らない父に、そんなこと言われる覚えはないわ、と思いながらも、本当に「俺は何も知らん」のだなあ、と、つくづく思い知らされたのだった。

 何も知らないという事実は、一ヶ月や二ヶ月、井戸掘りをやったからと言って、決して劇的に変わったりはしなかった。
 呆れた顔をしながらも、父は完全に勝ち誇ったように、ゆっくりと哀れな息子に最後の一言を言い放った。
「じゃ、お前の設計図を出して、俺に見せてみろ。」
 ここで設計図を出せなければ、私は二度と父と一緒に仕事ができないと直感した。
 しかし、設計図は見事に白紙の状態である。
 ただ、頭の中には、しっかりと設計図はできていた。

「こんな小さな家でなく、せめてこれぐらいの家が欲しいんや。」
 私はそう言いながら、地べたに棒切れをはしらせながら、自分の頭の中の見取図を描き始めた。
「玄関は南の方のこの辺りにして、すぐに四畳半の客間があって、奥には寝室とキッチン、それに書斎が一部屋、あとは西側にトイレと風呂場をもってくる。
 風呂はドラム缶の風呂で、焚き口がこの辺り、料理をしながら風呂の薪をくべれるように焚き口の横を台所にする。
取り敢えずこの辺りに押入れを二ヶ所作る、とまあこんなもんや。」

 今晩に雨でも降れば、消えてなくなってしまう、地べたに棒切れで描いた設計図であった。
 父は黙って腕組をして、じっと私の顔を見つめた。
 いつにない真剣な私の顔をしばらく見つめると、
「よしっ」
と言って、父は道具箱から新しい水糸を取り出した。
 生まれて初めて、心底、父に借りができたと思えた時でもあった。

・・・・・つづく

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Posted by おけら牧場 ラーバンの森 | Trackback (0)