おけら史:さらば、おけら山荘 《vol.4 ウジボタル》 山崎一之
August 11, 2003
朝が来るのが待ち遠しかった。
外が薄明るくなると飛び起きた。
朝飯前とはこの事で、七時頃まで墨打ちや溝掘りに取り組む。
土台の芯を出し、芯と芯を結んで墨を打つ。
更に曲り尺を使って溝の寸法を出し、柱のほぞの加工をしていく。
何しろ電気が来ていないので全て手作業である。
電気ノコギリと電気ドリルさえ使えれば数秒で出来る作業が、数分も数十分もかかったりする。
それだけで体力の消耗も激しいのだろうが全く疲れない。
無我夢中の作業が一週間、二週間と過ぎて行く。
古材の釘には悩まされた。
完璧に抜いたつもりでも、柱一本細工するのに、一本や二本の古釘が、どこかに潜んでいる。
「ガリッ。」
カンナとノコギリの刃がこぼれ、どれだけ研ぎ出しに時間をかけたか計り知れない。
「ガリッ。」と、音がする毎に寿命の縮まる思いを味わった。
「今度家を造るときには、新しい木材と電気道具が使える身分になってみてえなあ。」
ついつい古釘に悩まされた時には愚痴も出る。
今、思い返してみると、一、二週間目の頃には、まだ余裕があった。
「柱も加工すると背丈が短くなるし、せめて新しい木の香りのする木材を使ってみてえのお。」
愚痴というよりも、大工になったような気分に浸って、新しい仕事を楽しんでいたふしがある。
ところが、一ヶ月もするとその余裕はすっかり影を潜め、本心、そう思うようになっていた。
六月中旬になると北陸地方も梅雨に入る。
私たちは『おけら牧場』建設予定地から八百メートル程離れた、前田牧場の事務所の一室を借りていた。
そこは私が一年間、前田牧場で研修をしていた時に借りていた部屋で、台所も風呂もあり、土方仕事や大工仕事で汚れて帰ってきても、安心して大の字になって寝れる事務所の部屋だった。
前田さん夫婦は昼間は家畜の世話で「山」へ来るが、夜は七キロほど離れた田圃所の川崎の自宅に帰るため、事務所は自由に使わせてもらっていた。
「梅雨までには何とかしたいなあ。」
父と私の思いは同じだった。
梅雨入りまでには屋根だけは何としても葺き終りたかった。
ところが、作業は思っていたよりよっぽど大変な仕事だった。
まず適当な材料の絶対量が足りないのである。
柱も垂木もベニヤも大幅に不足していた。
柱はやはり八尺は欲しかった。
六尺の柱では、柱としては使い物にならなかった。
垂木も九尺は欲しい。
六尺では使える場所が限られてくる。
屋根の裏板だけはせめてコンパネを使いたかった。
トタンの屋根にぺらぺらのベニヤでは、夏や冬の寒暖を考えると、とてもじゃないがゆっくりと睡眠など採れたものではない。
材料が足りない上、全て手作業という大工仕事は、おのずと日本の伝統的『根性』に頼るしかない。
しかしその『根性』も古釘の「ガリッ」という音を聞く毎に、ノコギリの刃のように擦り減っていくのが目に見えるようだった。
梅雨に入る頃になってようやく柱と梁と母屋の加工が終わったところだった。
梅雨前線がどっかと太平洋沿いに腰を下ろして微動だにしない六月下旬のある日の事、前田さんがお酒を持って陣中見舞いに来てくれた。
前田さんには去年一年、畑仕事から家畜の飼い方、百姓の心構えから土地の世話まで、ここに住むためのイロハを教えてもらった人である。
「よう降るのお。」
このところ連日の雨で、取り敢えず筋交いをとり、柱と母屋を組み立て、垂木も仮打ちして、屋根の代わりに青シートを張って大工仕事を続けていた。
「わざわざどうも。」
前田さんをまだ床も張れていない一隅に招き入れ、私たちも一服する事にした。
しばらく世間話をした後で、前田さんは本題に入ってきた。
「実は八月の初めに研修生が二人ほど来るので、あの事務所を空けて欲しいんやけど、それまでに家は完成するけの。」
私は前田さんの事務所を自分の家のように使っていたため、
「うっ。」
と、思わず答に詰まってしまった。
そうだ、あの事務所は前田さんの事務所だったのだと、改めて思い知らされてしまった。
十五ヶ月も住んでいるうちに、彼我の区別がつかなくなっていたのだ。
当然、部屋代も払ってはいなかった。
以前の何も知らない時なら、「わかりました、長い間ありがとうございました。」と少しは大人らしい返事もできたであろうが、あと一ヶ月でどれだけの仕事ができるか検討のつくようになった今の私には、きっとろくな答もできなかっただろうと思う。
八月初旬までにはあと一ヶ月余しかない。
前田さんが帰った後、父と二人降りしきる雨の中、どちらから声をかけるともなく、家の真ん中にどかりと腰を下ろした。
「親父さん、酒でも飲もうや。」
前田さんが今持って来てくれた酒を手繰り寄せた。
これから八月初めまでどんな事をせねばならないか、又、八月以降、どういう生活を余儀なくされるか、二人は二人なりの覚悟をするしかなかった。
雨足はますます激しさを増し、屋根に掛けた青シートを容赦なく叩きつけている。
雨を肴に二人は黙ってコップ酒を飲み干した。
夜になると電気のない開拓地は、三方を林に囲まれているため漆黒の闇となる。
雨上がりの夕方は釘の頭が見えなくなるまで大工仕事を続けた。
勿論、一刻も早く家を完成させたいという気持ちはあったが、それよりも、南側の谷地のような田圃から、夜になると、気紛れに舞飛ぶホタルを見逃すわけにはいかなかった。
この近辺は、昔から小さな泉が湧き、下の集落の嵩(だけ)の人たちはよく洗濯に来たものだと、嵩の人たちが話してくれた。
ホタルは清流の冷たい川の中で育つ。
特にカワニナという貝を食料とし、確か、六回か七回、脱皮を繰り返し劇的に地上に出現するその一生は、幻想的な光とともに、まさに、現代の奇跡である。
「親父さん、ホタルやわ。」
「ほー、ホタルかあ。久し振りだなあ。」
父も感嘆の声を上げた。
蚊取り線香を足許に寄せ、夜気でひんやり乾いた額の汗をタオルで拭いながら、父子二人でランプの僅かな光の下、いつまでも光の奇跡を見続けていた。
或る晩、なかなかホタルが飛んで来ないので、藪の中を目を凝らして捜していると、「いるいる」藪の中に何十何百という小さな明りが光っている。
「凄い」
思わず私は自分の目を疑った。
ところが暫く見ていたが、一向に舞飛ぶ気配がない。
飛ばないホタルもいる事を、この時初めて知ったのである。
「大きく輪を描いて飛ぶのが源氏ボタル、藪の中で飛べないホタルがウジボタル」
林のおじさんが私に教えてくれた。
(これは後に、福井市自然史博物館の学芸員の方に聞いた話だが、ウジボタルは多分「クロマドボタル」の事だろうと言う、決して飛べないわけではなく成虫になると飛び始めるのだが、発光作用が弱くなり、夜目でもその光は見えないのだという。幼虫の時には発光作用が盛んで光って見えるので、通称「ウジボタル」というのだろう、との事であった。)
林さんは正体不明の不思議な人である。
ある時は百姓、又、ある時は土方のおっさん、重機の運転手、そして不動産屋であったり、又、ある時は、九頭龍(くずりゅう)太鼓の名人でもある。
林のおばさんはと言うと、一言で言うと、ダンプカーのようなおばさんである。
どちらかと言うと、内にこもるタイプの多い北陸にあって、珍しく威勢のいいおばさんである。
ちょっと痩せぎすで背高のっぽのおじさんと、どっしりして、大きな瞳を持ったおばさんのこの夫婦は、私がここに道を拓いて小さな小さな牧場を開く時から、愛犬と一緒に、よく見物に現れた。
「あんちゃん、よくやるのお、偉いのお。」
何が偉くて、何がよくやるのか、よく理解できなかったが、
「ええ、まあ。」
などと、適当に相槌を打ってはいた、が、そのうち息子を連れて来て私に引き合わせた。
その息子が当時高校生だった林君である。
煙草をくわえた高校生林君は、その後、ちょくちょく遊びに来るようになった。
大学卒業後、衣料品メーカーに勤めたが、脱サラし、今では堂々たるトマト中心の専業農家である。
去年などは小学校のPTA会長もやり、あの煙草少年林君がついにPTA会長か、と万感、胸に去来するものがあった。
又、林君の話は後の機会に譲るとして、林家との付き合いは、牧場開設以来、今日までずっと続いている事になる。
「ウジボタル」の発見は新鮮な驚きだった。
しかも、飛べないとは言え、闇の中で、何十何百という「ウジボタル」を捜すことが出来たのである。
ホタルと言えば優雅に夏の夜を飛び交う「源氏ボタル」しか知らなかった。
夕暮れが迫り、樹々の影が幾重にも重なり、闇が濃くなればなるほど、「源氏ボタル」の美しさは際立ってくる。
しかし、その「源氏ボタル」の飛翔の影に、数え切れない「飛べないホタル」の存在を知る事により、ホタルの美しさは私の中で益々神秘化されていった。
夜が過ぎれば、やがて朝が来る。
光はやがて影を創り、影はやがて光を創り出していく。
事務所への帰路の所々には、微かにねむの木の花の香りが漂っている。
この花が満開になる頃には、長かった北陸の梅雨も明けるはずである。
・・・・・つづく






