おけら史:さらば、おけら山荘 《vol.5 梅雨明け》 山崎一之
August 11, 2003
梅雨明けを心待ちにしていたのは、この年ばかりではなかった。
毎年毎年、何らかの思い入れをもって、梅雨の明けるのを待っていた。
小学校の六年生の時だった、と思う。
当時、開設されて間もない市営プール場へ、それこそ毎日のように通っていた事がある。
海に潜ってハマグリを採ったり、岩場のサザエを採ったりするのは、もうそれほど興味がなくなっていた。
それよりも流線型を描きながら、勢いよく水飛沫をあげて飛び込む競泳のスタートや二十五メートルのタイムを競う泳ぎの方が面白くなっていた。
当時、テレビの番組の中でも水泳放送は、プロレスやボクシングの世界戦と並んで、子供たちの大好きな番組の一つでもあった。
中でも、山中選手の活躍する千五百メートル自由形競泳を、それこそ、血沸き、肉踊る思いで、子供たちは応援していた。
まさか山中選手のようなスイマーになれるとは思ってもいなかったが、明けても暮れても私はプールに通った。
唇が真青になっても、プールから上がってこなかったのは、私一人だけではなかった。
この年、度の過ぎたプール通いに呆れた母は、
「雨の日にプールに行くのは駄目よ。」
と、一方的に私に宣告をしてきた。
親になった今、これは極めて当然の処置だと思うのだが、当時の私には、親の一方的なヒステリーとしか思えなかった。
「なんで駄目なんだよぉ、プールぐらいいいじゃんかよぉ。」
と、口先をとんがらせて不平を言う私に対し、母は、
「雨が降ってもプールへ行きたかったら、雨の中に立っていなさい。」
と、見事に私を一言で退けてしまった。
母は女性には珍しく理論派であり、絵も描き、読書や観劇も好きで、その上世の中に対して過激派であった。
過激派は良いのだが、時々ヒステリックなまでに衛生的であったりする事を除けば、私には優しい母親であった。
梅雨も、もう今日、明日にでも明けるだろうという頃、母にも私にも忘れられない『家出事件』が起きた。
雨が降ると、例え七月でも肌寒く感ずる日と、ちょっと陽が射せば湿気と高温の為、じっとしていても体内がベトベトになってしまう日とが交互に訪れていた。
その日は、どちらかと言うと涼しい一日で汗もかかなければ、勿論ほこりを被るような事もなかった。
深沢七郎の『庶民列伝』にでも出て来そうな、所謂、下町に住みながら、どこか垢抜けしたスマートさがあった母の日常生活は、とても衛生面について口うるさかった。
別に大した家でもなく、どちらかと言うと粗末な家であったにもかかわらず、柱と廊下と階段は、毎日からぶきをせずには、一日が始まりも終わりもしなかった。
雨の降る日はそれ程でもないが、天気の良い日や風のある日は、新聞紙に水を浸し、それを細かくちぎって畳の上にまき、一日に何回も掃除をしていた。
汚れていてもいなくても、服は毎日洗いたての服に着替えさせられた。
風呂は一日の休みもなく、銭湯へ連れていかれた。
小学六年生にもなると、私は毎日こういう母と一緒にいると、時々、息が詰まるようになっていた。
近所の子供達は皆、汚い長ズボンと長袖のシャツを着ていた。
転んでも怪我のないように、鼻水が出ても袖口で拭けるように、というわけでもないのだろうが皆が皆、長ズボンに長袖のシャツを着ていた。
半ズボンに半袖を着せられて外に出されると、友達の輪の中に入りづらい、などと言う子供の思いなど、当時の母には理解できなかったのだろう。
理解できなかったと言うより、それこそが母の生き甲斐だったのかもしれない。
野良で鍬を横において、家族で昼食を食べている写真や、映画のシーンでもあろうものなら
「家畜の糞やら下肥を触った手を、ろくに洗いもしないで、汚いったらありゃしないわ」と、鬼の首でも取ったように、子供たちに聞かせるのだった。
農家の生活は不衛生だ、貧乏な人達は汚い。汚さと不衛生を母は目の敵にしていた。
母が殊のほか、農家や貧乏を嫌がった背景には、戦後の買い出し、という生々しい記憶と、父の実家に結婚の際、さんざんいたぶられた記憶があったのだろうが、彼らとはここが違うんだという、区別する明白な物は、何物も持っていなかった母が、唯一、自分と彼らを区別できたのは『清潔』でいるということだけだったのかもしれない。
「お風呂に行ってきなさい」
姉と二人、風呂桶と石鹸を持たされて家を出た私は、何で汗もかかなければ、ほこりも被らないこんな日に、風呂に行かなければならないのか、この日ばかりは納得できなかった。
姉は銭湯から上がると、さっさと家に帰ったが、銭湯に行かずに遊んでいた私は、暗くなるまで帰らなかった。
薄暗くなってから帰った私に母は
「風呂にも入らないような汚い子には、食べさすご飯はないよ。」と、私に凄んでみせた。
「そうですか。」
私はあっさり納得すると、死のうと思って家を出た。
それから四時間後、近所のニワトリを飼っている小原のおばさんに見つけられて、私は家に連れ戻されてしまった。
それ以来、母は私に何も言わなくなった。
その日、線路から見た三日月が、平塚の方にある工場地帯の長い煙突に吸い取られるように消えていった光景が、心の隅に鮮やかに残っている。
小原のおばちゃんと、私を連れ戻しに来たばあちゃんが
「明日は梅雨明けかしらね」
と、言っていた言葉を私は昨日のようにはっきりと覚えている。
「よう!山崎。」
野太い声が背後から聞こえた。
「光ちゃん?! 来てくれたんか?!」
背丈は百八十センチほど、体重は悠に九十キロは超えると思われる光ちゃんが、重そうなリュックサックと大きな白い紙袋を下げて、にっこり笑って立っていた。
高円寺で仲間と出版の仕事をしている光ちゃんは、大学で経済を勉強していたが、どうしても司法試験をとりたくて、大学三年頃から司法試験の受験体制に入って勉強していた。
大学でたまたま机を隣り合わせ、深沢七郎がお互いの愛読書であるというだけで、信頼関係は成り立ってしまった。
「よく来てくれたなぁ。早速だけど昼飯の用意をしてくれないか。」
光ちゃんは山登りが好きである。
休日になると丹沢の山々を登り歩いていた。
宮ヶ瀬から塔の沢、蛭ヶ岳と、三日でも四日でも、長い時は十日程も帰ってこないことはざらだった。
一時期、光ちゃんの下宿先に転がり込んで、三ヶ月ほど寝食を共にしたことがあった。
彼も私も留守勝ちで、なかなか一緒に食事をする時間が無かったが、当時、通訳のバイトをしていた私は金回りも良く、晩飯は私がおごり、朝飯は彼が自炊してくれたのだった。
味は折り紙付き。
今日から美味しい飯が食えそうである。
私以上に喜んだのは父だった。
父は小さい頃から仕事は教え込まれたが、日々変化する生活の細々とした事は一切教え込まれていなかった。
仕事さえ出来れば金はついて回る。
そうすれば、女も飯もついて来る。
例え生活の貧富の差が多少あれども、それが人生というものだ、という信念のようなものを持っていた。
自分の稼いだ金の範囲内で家族が生活する。貧しくとも父を中心にした和やかな家庭を夢想していた父だったが、母は違った。
母は限られた予算の中で慎ましく生活するよりは、足りない分は自分で稼ぎ出す。
所謂、自立心の高い女性だった。
母は主婦と仕事を両立させた。
朝飯と弁当と夕飯は、日曜日以外、準備し忘れたというようなことは無かったように記憶している。
父もそれが当然だと思っていた。
が、ここの生活は、父の思いにはお構いなしに誰が食事の準備をするのか決まっていなかった。
父のおかずは決まって、ありったけの野菜を入れて煮詰めたような味噌汁だった。
私は味噌汁に、あとは缶詰。中でも鯖缶の味噌煮が最も安価であったため、鯖缶は常に台所に山となって保管されていた。
光ちゃんの参加で仕事に弾みがついた。
余裕も出来た。父と私の呼吸もぴったりと合い始めた。
次ぎに何をしたら良いのか、言われなくても判るようになってきたのだ。
尾根を全部張り終え、二部屋と台所だけは窓枠を入れ、あとの仕切はベニヤを打ちつけたり、引き戸を入れたりして、どうにか雨風だけは凌げるようにした。
風呂だけはまだまだかかりそうなので、前田さんに頼んで使わせてもらう事にした。
「ようし!今日は祝杯だ」
前田さんからの引越しが完了した七月下旬の或る日、ささやかな引越記念パーティを三人で用意した。
イカとハマチの刺身に肉じゃが、それに定番の鯖の味噌煮の缶詰を買出しに行って来た。
久々に豪勢な夕食である。
レッドの大瓶を二本買い込んだ。
ビールも酒もまだまだ贅沢品であった。
父の若い頃は冷酒を一、二合一気に飲んでそのまま山手線の駅を一駅走れば、たいがい酔っ払えたもんだと自慢していたが、今は手軽なレッドがあった。
その上、極上の自力で掘った井戸水が、水割り用の水として使えるのだ。
冷たい、汲んだばかりの井戸水をコップにとり、琥珀色のアルコールをとくとくと差し込むと、不思議な螺旋模様を描きながら水割りが出来あがる。
冷蔵庫の無い七月の盛りである。
刺身の料理は一分の猶予も許されない。
『乾杯!』
『乾杯!』
光ちゃんは静かな野太い声でコップを前に突き出す仕草をしては、見事にぐいぐい飲み干していく。
あまり酒の飲めない私らは、貴重な一杯の水割りを飲むと、料理の方に舌鼓を打っていた。
「この家が完成したら、今度は一級酒かビールで乾杯しようぜ」
父が酔った勢いで威勢のいいことを言い出した。
「いいえ、僕はこれで充分です。この水割りは最高です。」
私と光ちゃんは顔を見合わせてニヤリと笑った。
自分たちの建てた家で、自分たちの掘り当てた水を飲む。
例えその生活が極貧の状態だとしても、自分で掴んだ自分の生活がそこにはあった。
それで充分だとは思わないが、確かな自分の生活が出来あがりつつある、という実感は沸沸と湧いてくる。
あまり飲めもしない私は、そこにそのまま、いかにも一人で酒を飲んだかのように酔いつぶれてしまった。
夜中の何時頃だったろう。
ぶんぶんという蚊の鳴く声に「ふっ」と目が覚めると、光ちゃんが平然と本を開いて勉強していた。
光ちゃんの持ってきたリュックサックと白い紙袋の中は、僅かな下着と着替えと、あとは法律関係の本ばかりだった。
私は家を造り始めてから、英語の豆単は手許に置かなくなっていた。
本もテレビも映画も観なくなっていた。
少なからぬ衝撃を覚えたが、私はそのまま目を閉じた。
翌日、私は一日中青い顔をしていた。
午前中は二度、三度と胃液まで吐き出して、せっかくの栄養源を自分の意思とは関係なく体が拒絶してしまうのである。
「全くだらしがねえだから」
父は全く情けないという顔をして、舌打ちしていた。
光ちゃんは唯々笑っていた。
梅雨明けは三日ほど前に気象台から発表されていた。
・・・・・つづく






